上野誠の息子で版画家の上野遒さんが、2001年10月14日に行った講演記録です。

玩具デザイナーとしての父の再出発
私達一家は終戦の年に新潟県の六日町に行き
ました。その前は、東京から鹿児島、岐阜、長野と転々と動いていたのですが、その間父は中学校や川崎航空機の青年学校の先生をしてきました。国策にそって働かざる得ない教職にあったわけですが、予科練に志願した学生の書類の提出をわざとぐずぐず遅らせて、本人には恨まれ、親御さんには感謝されたりしたということもあったそうです。
六日町へ行ったのは玩具工場のデザイナーという職を見つけたからです。このことについて父は「新しい平和の時代と幼児を結び付けて玩具つくりになろうと決心した」と自分の画集に書いています。これは本当か?と思ってしまいますよね。まあ、そう思ったから玩具デザイナーの職を探した、というわけではなくて、偶然それが六日町に見つかったのだと私は思います。
生活綴方教師でもあった父
昭和20年、6才の頃からの記憶は急に鮮明になってきます。六日町には小学校の6年間いたのですが、この間の記憶には父の存在が色濃く残っています。
父も若く元気で、子どもに対しては熱心な教育者でした。版画をやってきた人でしたから、私に絵を描くことを教えました。低学年の頃は、絵日記を半ば強制的に描かされました。私も楽しんで描きましたけど。今でもその頃の絵日記が残っています。親がとっておいてくれたんですね。
作文もよく書かされました。国分一太郎さんや来栖良夫さんとのお付き合いが始まったのは、私に対する作文教育がきっかけでした。作文を書くのは絵と違って苦痛でしたね。毎日「原稿用紙3枚うめてから遊べ」なんて言われ嫌々書いた記憶があります。こういう強制は子どものために良くない、ということを反面教師として教えてくれたようなものでした。
こんな強制的な親の教育を受け入れてきたわけですが、人生のこやしにはなっています。今となってはありがたいことです。
作文教育で父は「生活の中の色々なことをよく観察して、詳しく描写せよ」と言ったんですね。「家に帰って来たら母ちゃんが居なくて寂しかった」では駄目で、どう書いたらその寂しさが人に伝えられるか、その時の部屋の様子をよく思い出して考えろ、というようなことを言われました。
油絵事件(妥協しない父)
六日町の東側には金城山という山があって、春、夏、秋、と美しく表情をかえます。ここは、繰り返し写生しましたので、今でも見ないで山容を描けるほどです。4年生の頃だったと思いますが、父が油絵を描いてみないかと言って私に油絵具のセットを貸してくれたことがあったんです。
油絵は子ども心に面白かったですね。完成した金城山の油絵を額に入れて、油絵の道具といっしょに得意になって学校に持って行き、先生に見せました。担任の先生は趣味で絵を描いていたかと思うのですが、「油絵はこう描くもんじゃない」と、私の絵にどんどん筆を入れて、すっかり違う絵に仕上げてしまいました。なんだか妙に白っぽく濁った色ばかりの金城山の絵を情けない気持ちで家に持ち帰り、父に見せました。父親はそれを見て怒り狂いましたね。「なんということをするか」と学校へ走り、校長室で担任と会って抗議して、しまいには気持ちが納まらず拳骨をこう作って、絵を額からガツンとぶち抜いて、それが担任の先生のところへ飛んで行きました。帰って来た父からこの顛末を聞かされて、私は大いに悩みました。翌日、学校に行くのが憂鬱で……。困った親でしたね。
こういうことがありましたので、子供の絵には大人は手を入れてはいけないということが体に染み込んでしまいました。文化祭があってそれには子ども部門、父兄部門があって、自分は出したかどうか覚えていませんが、父と見に行きました。大人の絵の部門を見た時、父は片端から「良くない絵だ」とか「気持ち悪い」とか、私から見るといい絵なのにけなしました。なんでこの絵がよくないのか聞きますと、「アカデミックでいけない」と言っていました。
アカデミズムの意味など私には分からないままにアカデミックな絵は良くないのだと思いこまされてしまった訳です。

父の生き方への共感と反発
その頃父は版画を夜になってから制作していました。「戦前最後のメーデー」という作品があります。当時はベニヤ板が無かったので、この絵の板木は朴の木の一枚板だったのです。私の寝ている布団のそばの机でトントン、コツコツ、板木を彫っていた音を覚えています。この絵について父は色々説明してくれて、当時のメーデーがどんな具合に恐ろしい弾圧を受けたかを教えられました。
私にとっては、メーデーの話も拷問の話も恐怖心の強制注入みたいなものでしたね。権力者に逆らって闘うことへの共感とそういうことへの恐怖心、相反する要素が染み込みました。論理でなく感覚としてです…。振り返ってみれば、小学生の頃の私は少々、頭でっかちな子どもだったと思います。でも一方では、川や野山で遊んだ記憶も豊かにあって、戦後の6年間、六日町での生活の思いでは、私の人生の中で一番輝いている部分のような気がするんですね。
私達は昭和27年に東京台東区の谷中に引っ越しました。この転居のお陰で小学校時代と中学校時代の記憶には、実にはっきりとけじめが付いていて中学校時代の記憶にはもう以前のような輝かしさが感じられません。中学校時代は谷中の墓地の中が主な遊び場で、アベックの後を付けたり、爆竹遊びをしたり、悪い遊びの記憶が増えますね。父もそれまでの注入教育とは違って私には何も言わなくなりました。

父が被爆者を描くきっかけ
この頃の父の作品に、上野駅のガード下で広島の被爆者が訴えている全紙大の作品が有ります。ケロイドに覆われた両足を投げ出してガード下の路上に座り込んでいる男が画面の中心に居て、大勢の見物人が回りを取り囲んでいるという絵です。偶然この情景に出会った父はその場に釘付けになり、そのうち堪らなくなって自分もその男の背後に屈んで一緒に原水爆の悲惨を訴え始めたんだそうです。その時の自分の姿も描き込まれています。父はその男の人のケロイドにも手を触れさせてもらったそうで、その時の衝撃的な体験からこの絵は生まれたのだと思います。
自分の信念で脇目もふらずに一直線に向かっていった作品だったように思います。私は父から大きな影響を受けた反面、反発することもあったのですね。この絵については、なんて古臭い絵を描くのか……いいと思わなかったですね。父は絵が出来上がると家族や友人に見せて意見を聞いてみることが良くありました。誉めるともちろん喜びました。滝平二郎さん、鈴木賢治さん、その他何人かの父の仲間の人たちがよく家に出入りしていて、この作品についても色々な意見交換があったようでした。
高校生になると私も木版画を何点か作りました。用具は家にありましたし、バレンとか彫刻刀とか……。見よう見真似で出来たんですね。この頃から父との関係は希薄になってきまして、私は家に居ることが少なくなりました。
ベン・シャーンに惹かれた浪人時代
高校卒業の年は美大受験に失敗し、2年間浪人しました。何か自分の絵のテーマを持つといいという父の助言があったのですが、その意味がよく分からなかったですね。でも新橋の場外馬券売り場に群れているいろんな人達の様子が面白くて、よくスケッチに行っていました。また、この頃、ベン・シャーンが好きになりました。ベン・シャーンが食うための仕事で忙しく、日曜日にしか制作できなかった時代の絵をサンデー・ペインティングと呼んでますが、その頃の彼の絵にとても惹かれたんです。ベンの絵に似たイメージをスケッチしていました。
新宿広場で相手に見つからないようにコソコソとスケッチしていたある日のことです。ちょっと怖そうなお兄さん、地回りのお兄さんみたい人が酔ってきて、「お前、人を描きたきゃ夜ここに来いよ。夜に来ればいくらでもモデルになる奴を紹介してやる。これ持って俺んとこへ来ればお前ってわかるから」と自分のネクタイピンをくれました。その人は多分、私のことなどあっさり忘れているだろうと思いながらもその夜広場に行ってみました。お兄さんはネクタイピンで約束を思い出してくれました。
夜10時頃でした。連れて行かれたビルの隙間や路地に人が寝ていて、それを覗きこんで行くうちに、ある人を『オイ、起きろ』と言って起こして『こいつを描きな』って言って、自分はどこかに行ってしまいました。私は大変なことになってしまったなと後悔しながらも、何枚かその人のスケッチをしました。恥ずかしくも懐かしい勉強でしたね。
この頃、ある版画家から、「お前親父さんと同じよう事やっていてこの現代を描けると思うのか」なんて言われたことがありました。大学に入ってからは安保闘争があって、落ち着いて絵の勉強をする気になれず、極めて不勉強な学生のまま卒業してしまいました。
本当の勉強は卒業してから何年かして、版画の制作に向かうようになって始まったという気がします。