上野誠の息子で版画家の上野遒さんが2025年10月26日に行った講演記録です。
ひとミュージアム閉館に寄せて
ひとミュージアムが閉館するということを田島館長さんからうかがって、とうとうその時が来たのだなと思いました。
この美術館がなければ出会わなかったであろう、いろいろな方との出会いを、私自身もさせていただきました。それから、私がただ家で保管しているだけでしたら、ほとんどどなたの目にも触れない父の作品が、25年間、この美術館を通して多くの方に見ていただき、メッセージを伝えていくことができました。本当にありがたいことだと、改めて思っています。
こうした美術館をつくり上げ、そしてこれまで支えてくださった皆さま、そして田島館長さんに、心から感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございます。
「平和」や「原爆」という言葉を離れて
上野誠に関しては、これまでいろいろな方が、さまざまな角度からお話しくださってきたと思います。その多くは、平和とか戦争とか、人権とか、そういった人間社会や、社会の中で変革の意識を持って生きるというような観点からの言葉だったのではないかと思います。そうした言葉に包まれながら、この美術館で上野の作品はずっと生きてきたのではないかと、私は思っています。
上野も、そして私も版画を作っている者です。ですから私のことを、上野誠と似たような考え方を持ち、上野誠の路線を継続して実践している版画家なのではないか、と考えてくださる方もたくさんいらっしゃるようです。
しかし、実はそうではありません。むしろ反抗しながら父親の仕事を考えてきた、というところがあります。
今日は、これまで上野誠の作品を包んできた「平和」や「戦争」、あるいは「原爆」といった言葉ではなく、絵描きとして、また一介の版画家としての立場から、誠の作品をどのように見ているのか、というお話をできたらと思っています。
《ケロイド症者の原水爆戦禁止の訴え》という作品
今回テーマに選びましたのは、ここにあります《ケロイド症者の原水爆戦禁止の訴え》という作品です。

1年ぐらい前に、田島館長さんから、閉館にあたって何か講演をやれと言われまして、それならこの絵について語るのが一番いいかなと思いました。それ以来、ずっとこの作品についていろいろ考えてきました。
そうしますと、若いころにはそんなに関心を持っていなかった、むしろ「随分古臭いものを作ったな」と思っていたこの作品について、私の考え方が少しずつ変わってきました。
その変わってきた理由について、これからお話ししたいと思います。
今日、久しぶりにこの美術館に入ってきて、この作品を見たとき、私のイメージの中にあった作品よりも、ずっとしっとりした感じがあるので、ちょっと意外な気持ちがしました。もう少し白と黒が激しく衝突しているような、ギラついた感じの作品ではないかと思っていたのですが、実際に見てみるとそうではないんですね。
若いころは、「古臭くて嫌だな、この絵は面白くないな」と思っていたのですが、今見てみると、むしろ「いい絵じゃないか」と思い始めてしまって、ちょっと困っているんですけれども、そんな感じなんです。
記録としての絵
この作品について語りたくなった理由のもう一つは、今申し上げたように意外としっとりしているという点です。並んでいるほかの作品とは少し違って、作者の内的な感情や心理をそのまま表現するタイプの作品とは、やや異なるような気がするんですね。
向こうに並んでいる原爆関係の作品は、この作品のあとに制作されたものですけれども、そうした作品は、作者が被爆者のケロイドから受けた強い印象をもとに、それが自分の内部で発酵したり、あるいは爆発したりするようなかたちで絵になっていった、そういうタイプの作品だと思います。
それに対してこの作品には、そういう意味での作者の内面表現といいますか、そういうものがそれほど正面から描かれているようには見えません。むしろそれをできるだけ抑えながら、自分が遭遇したこの場面についてレポートしたい、という感じが強いように思います。
レポートというか、記録性というか、その記録性に作者が相当こだわった作品なのではないか、というふうに私は思っています。
上野駅のガード下での出会い
これは1954年5月、上野駅のガード下で、この被爆者の方が路上に座り込んで原水爆禁止を訴えている場面に、上野誠が偶然出会ったことがきっかけになったと言われています。
当時のことについては、上野は私たち家族に、夕食のときなどによく話していたはずなんです。断片的には覚えているのですが、詳しく何を聞いたのかとなると、ほとんど思い出せないんですね。
ただ、上野誠という人は、自分の仕事や制作中の作品、あるいは出来上がった作品について、必ず家族に見せて話すということをしていました。それは生活の中の大事な部分として、日常的に行われていたことだったと思います。
ですからこのときも、上野は、路上で原水爆廃止を訴えている人に出会ったこと、そのときの衝撃について、何度か話していたはずなんです。
私は最初、この被爆者に出会ったのは一度きりだったのではないかと思っていました。しかし調べてみると、そうではなくて、上野は何度か上野駅のガード下、あるいはその近辺に出かけて、その被爆者に会っていたようなんですね。

第五福竜丸の被爆
1954年というのは、ビキニの被爆事件があった年で、第五福竜丸がビキニ環礁で被爆しました。その年の3月、被爆した第五福竜丸は焼津港に帰港します。帰港後、第五福竜丸の積荷であったマグロが放射能に汚染されている可能性があるとして廃棄され、さらに他の漁船の水揚げ分も含め、各地で水産物が回収・廃棄される事態となりました。こうした「放射能マグロ」問題は大きく報道され、日本中が震撼したわけです。
それから何か月かすると、今度は日本各地で「死の灰」と呼ばれる放射性降下物への不安が広がり、5月頃には雨やちりに放射能が含まれているのではないかという報道も相次ぎました。そういう出来事があった中で、路上の被爆者に出会ったわけなんですね。ですから当時の人々は、路上の被爆者を見た時に、非常に身近な、自分たち自身の恐怖と結びつけて、原爆の悲惨さとか残酷さみたいなものを感じていたんだろうと思います。
絵の舞台となった場所を歩く
皆さんも上野駅の近辺、ガード下あたりをご存じの方が多いと思いますが、この話をするにあたって、先日あらためて上野駅に行き、その周辺を歩いて、この絵の現場になった場所を見て回りました。そうすると、いろいろ面白いことが分かりました。
上野駅は、1945年の東京大空襲では大きな被害を受けていません。現在の駅舎の基本構造は、1923年の関東大震災後に再建されたものが基礎になっています。
いまでは改築も進んで、昔の部分はあまり残っていないように見えるのですが、よく見ると、ところどころに古い駅舎の痕跡が残っています。中央口の構内の広い空間から二階へ上がる部分などは、構造としては昔のままですし、現在は飲食店街になっているところもあります。また中央口から外に出た部分の外壁についている街灯なども、かなり古いものが残っているようです。
手描きの画稿の発見
手書きのこういう絵があります。
これはおそらく、和紙に毛筆と墨を使って描かれたデッサンだと思います。私はこの作品の小さな写真を偶然見つけました。この作品の存在をまったく知らなかったものですから、見つけたときは非常に驚きましたし、同時にとても嬉しく思いました。
画稿と版画の違い
版画になった作品とほぼ同じ主題を描いているのですが、よく見るとかなりの違いがあります。この手描きの絵と版画とを比較しながら、その内部を追っていくと非常に面白い素材になるのではないかと思いました。
この作品の写真は、はがきサイズのとても鮮明なものです。それをコピーして拡大してみました。そうすると、絵の中に文字の書き込みがあることが分かったのです。
この図版ではその文字は見えないと思いますが、四角い列柱が二本あり、その右側のところに文字が書かれています。そこには「画稿 訴える人 1954年5月 上野誠」といった書き込みがありました。
このことから、この絵が1954年5月ごろに描かれた可能性が高いと思います。もちろん、正確に5月かどうかは断定できませんが、少なくともこの作品が最初に生まれたのは1954年ごろだろうということは、かなりはっきり言えるのではないかと思います。
では、なぜこの絵が版画よりも先に描かれたものだと判断したかというと、内容や構造の面から見て、版画のほうがより煮詰まった構成になっているように思えるからです。構図や人物の扱い方、絵としての組み立て方などが、版画の段階でより整理されているように感じられます。ですから私は、この画稿が先にあり、その後に版画が制作されたのではないかと考えています。
この二つを比べてみると、いくつか非常に大きな違いが見えてきます。
まず、画面の右側の構造がまったく違います。この場所は上野駅の不忍口を出たところで、地下鉄へ下りていく斜面が続いている場所です。ただし、この手描きの作品が描いている場所は、必ずしもそこではないようにも見えます。
現在の上野駅を歩いて、こうした四角い壁のある場所をいろいろ探してみましたが、完全に一致する場所は見つかりませんでした。ただ、中央口を出たところのテラスのような場所が、雰囲気としては少し似ています。
そう考えると、この場面は最初に出会った場所とは少し違っている可能性もあります。また、この被爆者の方が訴えをしていた場所自体が、日によって変わっていた可能性もあるのではないかと思います。
大胆な行動に思えた座り込んでの訴え
実際、現在の上野駅には「許可なく鉄道用地内で寄付を求めたり、物品を販売したり、ビラを配布したり、演説や勧誘をすることは禁止されている」という掲示が貼られています。これは鉄道関係の法令によるものですが、調べてみるとそのもとになっている法律は明治時代のもののようです。
そうしたことを考えると、1954年当時に、このような場所で座り込んで訴えをしていたというのは、かなり大胆な行動だったのではないかと思います。
しかもこの場所は、交番の前でもあります。警察官が常にいる場所のすぐそばで、こうした訴えが行われていたわけです。
さて、この手描きの画稿が何のために描かれたのかということも考えてみました。非常に丁寧に仕上げられていて、ひとつの完成した作品のようにも見えます。描き直した跡や迷いの痕跡はほとんどありません。
しかし右端には「画稿」と書かれています。普通、画稿というのは印刷物のための原画という意味で使われることが多い言葉です。また版画の場合には、版に刻むための下絵という意味にもなります。
ただし、この絵は版画になった作品とはかなり違っています。ですから、版画の直接の下絵というよりも、何らかの印刷物のための原画であった可能性もあります。しかし、その印刷物が何だったのかは、今のところ分かっていません。
ただ、二つの作品を比べてみると、画家の内部でどのようにイメージが発酵し、造形的に組み立てられていったのか、そのプロセスを見ることができるという点で非常に興味深いと思います。
まず大きな違いとして、画稿には上野誠自身が描かれていません。上野は後に、この被爆者に寄り添い、自分も一緒に訴えたと語っています。私はそれは本当だったのではないかと思います。しかし、画稿にはその姿が描かれていないのです。
版画では、上野自身が画面の中に登場します。この点は、作品の意味を考えるうえで非常に大きな違いだと思います。
また画面構造にも違いがあります。画稿では大きな柱が二本立っていて、その柱が空間を区切るような構造になっています。いわば額縁のような構図です。
一方、版画では地下へ下りていく通路の手すりや街灯が構図の骨格になっています。
さらに、版画では足元に座り込んでいるホームレスの人物が描かれています。これは画稿にはありません。ただし画稿では、遠景にホームレスらしい人物が歩いている姿が描かれています。
つまり、作者の頭の中では、ホームレスの存在はこの場面にとって欠かせないイメージだったのではないかと思います。
当時の上野には、傷痍軍人やホームレスの人々が多くいました。戦争で手足を失い、生活の手段を失って路上で暮らしている人たちです。戦争の傷跡が、まだ日常の風景の中に残っていた時代でした。
そうした中で、この被爆者の姿もまた、戦争の延長線上にある存在として見えていたのではないかと思います。
上野誠作品における構図と心理表現
この作品を見てまず感じるのは、人物が全身でこちらに向かっているのではなく、「少しのぞき込む」ような姿勢で描かれている点です。この描き方には、その場にとどまりたい気持ちと、立ち去りたい気持ちのあいだで揺れる心理が表れているのではないかと考えられます。
このように考えると、画角や足の向きといった細部も、画家が意識的に構成した要素である可能性が見えてきます。人物の身体の向き一つをとっても、心理的な曖昧さや葛藤を表現するために、慎重に設計されていると考えられます。
子どもの表現の変化
画面中央の子どもにも注目したいと思います。下絵では恐怖を感じている表情が描かれていますが、完成作では人物にしがみつく姿へと変更されています。これは、子どもの内面にある不安やざわめきをより強調するための変更だと考えられます。
このように、人物の配置や動きは単なる写実ではなく、心理の強度を高めるために操作されています。画家が人物をどのように画面内で「動かすか」に強い注意を払っていたことがうかがえます。
この作品の被爆者は足元、すなわち自らの書いた文字に視線を落としています。この点は重要です。上野が観衆に直接語りかけているのに対し、被爆者本人は必ずしも同じ方向を向いていません。このズレから、被爆者が上野の行為をどのように受け止めていたのか、全面的に受け入れていたのかという問いも生まれてきます。
犬とリードの構造
画面に描かれた犬も興味深い存在です。首輪から伸びるリードは画面の外へまっすぐに伸びており、画面内へ引き込む動きと同時に、外へ向かう力を生み出しています。
もしこのリードがなければ、犬の視線は画面外へ拡散し、構図は不安定になります。したがってリードは、画面構造を支える重要な要素であると同時に、見えない飼い主の心理も表しているといえます。
飼い主は「もうここから離れたい」と感じているのに対し、犬は「もう少しここにいたい」ととどまろうとしているのかもしれません。このように、人間が直接描かれていなくても、人間の心理が表現されている点が興味深いところです。
募金箱の差異
画面には二つの募金箱が描かれていますが、その構造には違いがあります。一方には蓋(ふた)がなく、もう一方には切り込みの入った蓋がついています。
蓋のある箱にお金を入れるには、しゃがみ込み、紙幣であれば折りたたんで差し入れる必要があります。この違いは、単なる描写の差ではなく、行為の意味を考えさせる要素です。
つまり、これは単なる施し(恵み)としての募金なのか、それとも市民的な支援や運動の一環なのか、解釈が分かれるところです。
画面内の文字
画面内の文字としては、以下のような内容が読み取れます。
「米ソ両国の和解を祈る」
「原水爆戦の防止」
「原爆乙女」
「原爆被爆者」
「原子力ケロイド」
「何とぞ温かきご同情のほど」
これらの文言は、被爆者が自らの状況を訴え、同情や支援を求める切実な声を示しています。
被爆者のその後
しかし、この被爆者がその後どうなったのかについて、上野誠は何も語っていません。この点には疑問が残ります。
もしこの人物が各地を転々としながら生活していたとすれば、ある日突然姿を消したとき、周囲の人々や家族はその行方を気にかけたのではないでしょうか。その不在は、残された側にとって大きな重みとなった可能性があります。
そうした想像を含めて考えると、この作品は単なる一場面の記録ではなく、その後の人生や関係性までも想起させる力を持っているといえます。
まとめ
この作品は、人物配置、視線、動き、細部の小道具に至るまで、非常に緻密に構成されています。それらは単なる写実を超え、人間の心理や関係性、さらには見えない物語をも画面内に浮かび上がらせています。
そして、作品の外側にある「その後」への問いを残すことで、鑑賞者に思考を促す構造を持っているといえるでしょう。