25年の記録

ひとミュージアム上野誠版画館の開館の頃

焼けた五重塔(1957)
焼けた五重塔(1957)

館長 田島隆

 

「焼けた五重塔」の衝撃

1961年創刊2号の「文化評論」に上野誠の「焼けた五重塔」が掲載されているのを見て感動したのが上野誠版画との最初の出会いでした。五重塔を描いた作品はいくらでもありますが、焼けた五重塔を描いた作品を見るのは初めてでした。しかもその作品(グラビアの写真)は実に美しかったので、すっかり引き込まれてしまいました。その時上野誠という名前が私の中に刻まれて、それから以後、絵画を見たり本を読むたびに「上野誠」の名前を意識するようになりました。気をつけていると上野誠の名前は雑誌や書籍に時々登場しました。そんなことがきっかけになり、展覧会をすることを思いつきました。

 

川中島生まれと知る

1983年、長野大通りが開通し、沿道の小さなビルの2階に「せせらぎ画廊」という画廊ができました。そこを訪問すると机上に立派な装丁の画集が2冊置いてありました。1冊は「池田満寿夫全版画集」で、もう1冊は「上野誠全版画集」でした。上野誠全版画集を開き巻末を見ると、「明治42年6月7日長野県更級郡川中島村大字今里字阿弥陀堂に生まれる」と経歴が書いてありました。私は上野誠の名前は知っていましたが、生まれが川中島とは知らなかったので驚きました。それ以来、上野誠をなんとなく身近に感じて、よりいっそう、親しみを覚えるようになりました。

 

長野県で初の上野誠展の開催

1985年8月3日~8月10日、長野県教育会館とロートレック画廊で開かれた上野誠木版画展(主催:長野県教組・長野高教組・上野誠木画展実行委員会)が、長野県で行われた上野誠展の最初でした。ここには実行委員として、同級生の伊藤清四郎、須坂市の今井弥吉、須坂画廊の北澤禎一、県教組執行委員長の工藤俊樹、美術評論家の小崎軍司、ジャーナリストの野口清人、県短助教授の浦野吉人、信州版画協会会長の岡村雄二、被災者の会の前座良明、原水協の堀内瑛、原水禁の藤巻孝造、ロートレック画廊の山口高治郎、教員の田島隆、親族の正木千代、内村均、内村泉、田辺佾子、内村民氏らが名を連ね、山口高治郎氏と田島隆が実務を担当しました。これを機に長野県下で上野誠の名前が知られるようになりました。 

母の死(1957)
母の死(1957)

「母の死」と親族の記憶

この時の作品はロートレック画廊の山口高二郎さんが直接上野家から車で運んでくれました。展覧会まで時間があったので作品のわが家の土蔵にしまっておいたところ、親族の田辺佾子、田辺弘志、内村均、正木千代、内村民さんが「作品を見たいと訪問され、何点かを開いてみました。その中の「母の死」を開いたとき、田辺佾子さんと内村民さんは大つぶの涙をぽたぽたと落とし、次のような話をしてくれました。「題名の母というのは私のおばあちゃんです。おばあちゃんはそれは優しいおばあちゃんでした。私達が学校から帰る頃になると表に迎えに出てきてくれました。私達はおばあちゃんの姿を見ると競争で走って帰ったものです。中に入るとおむすびが用意してあって姉妹で食べたものです」「おばあちゃんが死んだとき、私たちはその棺の周りに集まりました。すると誠叔父さんが、その棺をのぞき込んで、おばあちゃんの顔を描いてました。私はこのおじさんは、なんて非情な人だと思いました。だが、今この絵を見るとそうでなかったことがよくわかります」。他の2人も「あの時は本当にひどい人だと思ったよ」と口をそろえました。

 

作品保管から美術館建設の決意へ

持ち込まれた作品を前に「この作品をどうしたらいいだろうか?」と考え、関係する皆さんに集まってもらい意見を聞いてみました。「希望者がいたら県下を巡回したらどうか」「晴れた日に庭にテントを張り、飾って見てもらう」などたくさんの意見が出されました。私が作品の保管をすることについて家族の意見はみな反対でした。「作品を持っていると、いろんな面倒なことが起きるから、早く静かに持って行ってもらうようにしてほしい」「万が一の時には賠償しなければならない」「作品を見たいという人が来たら見せなければならなくて面倒くさい」等々の意見でした。この年、私は教員を定年退職することになっていました。妻も教員だったので、二人の年金があれば生活はなんとかなる。退職すると退職金が入るので、思い切ってその金で美術館を建てたらどうかと思い、反対する家族を説得し建設する決意を固めました。

 

「上野誠版画館をつくる会」の発足

1999年11月21日(日)に「上野誠版画館をつくる会」を発足させ、ホテル信濃路で記念シンポジウムを行いました。パネリストには窪島誠一郎、米山政弘、箕田源二郎(当日病気で欠席)と田島隆がなり、野口清人氏がコーディネーターを務めました。

 

2000年2月17日に、「つくる会」の会員は100名を超え、NHK長野放送局「おいでよプラザN」で「版画館をつくる会」が紹介されました。

 

建設地決定までの模索

当初、版画館は、松代につくろうという話でした。大本営地下壕があり、その入り口(5番口)から川中島平が見渡せるので「ここにしようか」という話があり、町田長治氏が模型を作ってくれたのですが、このプランは地元の区長が反対してだめになってしまいました。引き続き「つくる会」で敷地、建物の構想などを検討したところ、街づくりの専門家石見清(いわみきよし)氏が「北國街道沿いのこの場所がいい」と強く主張し、川中島町今井1698番地の現在地に決定しました。

 

「ひとミュージアム上野誠版画館」誕生

館の名前は「川中島美術館」「田島美術館」「上野誠美術館」などの候補が出されましたが、最終的には「ひとミュージアム上野誠版画館」に決定しました。人と人との繋がり、人の命の大切さをテーマにすることが上野誠の版画を展示する基盤になるのではないかという思いでした。「ひと」のロゴは石見清さんが考えてくれました。開館行事には上野誠の同志でもあった築比地正司、信濃デッサン館館主の窪島誠一郎、区長の山下四郎、県議の高橋宏各氏からご挨拶をいただきました。

 

開館行事と交錯する記憶

挨拶の中で築比地さんは、芸大における弾圧に触れて「我々は拷問を受けた際、頑張って仲間を売らなかったが、洲之内徹氏が我々を裏切った」と話してくれました。

 

私はこれを聞いた時、洲之内徹の親友である山口高治郎さんの反応が気になりましたが、彼は何事もなかったように話を聞いていました。  

多岐にわたる活動

美術館の25年を振り返ると、その活動は展示にとどまらず、演奏会、講演会、シンポジウム、読書会、美術作品の制作、文化財保護、環境保護、書籍の制作・発行、教育活動、平和活動など、多岐にわたりました。

原爆禍を描いた長野市出身の版画家・上野 誠が遺したもの|テレビ信州