「原子野連作」と上野誠

※本資料は、版画家・上野遒(上野誠の息子)が2001年2月14日に記したものです。

ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え
ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え

ケロイド症者との出会い

 『ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え』は、日本の敗戦から10年目、上野が46歳のときに制作した作品です。 記録的リアリズムの手法に徹した大作であり、戦後日本における原爆表現の重要な一作といえます。

 

画面中央には、ケロイドに覆われた両足を投げ出して座る被爆者の男性が描かれています。 その背後には、しゃがみこんで群衆に語りかける作者自身の姿があります。 二人を取り囲む人々は、好奇、嫌悪、同情、恐怖など、さまざまな感情を浮かべており、当時の社会が被爆者に向けていた複雑なまなざしが表現されています。

 

上野は、生前この作品の背景となった体験を繰り返し語っていました。 偶然通りかかってこの被爆者と出会ったときの衝撃は大きく、彼はケロイドに手を触れさせてもらったといいます。 そして、そのまま被爆者の背後にかがみ込み、人々に向かって原爆の非道さを訴えはじめたということです。 ケロイドに触れた手の感触を通して、上野はそうせずにはいられない衝動に突き動かされたのではないかと思われます。

 

 

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ヒロシマ三部作 男(1959)
ヒロシマ三部作 男(1959)

原爆表現への出発点

 この作品は、上野が原爆のテーマに深く取り組んでいくきっかけとなりました。ここから『広島の人』、『ヒロシマ三部作(男・女・鳩)』といった作品が生まれ、さらに1960年代以後の代表作である『原子野連作』へとつながっていきます。

 

 

長崎での出会いから生まれた『原子野連作』

 『原子野連作』は1961年、62年の2回にわたって長崎へ行き出会った幾人かの被爆者との交流から生まれたものでした。長崎直後の地獄の惨状の記憶、今なお続く苦痛、怒り、悲しみ、絶望と希望の交差。それらを作者は表現しようとしています。被爆者ではない上野が被爆者の体験や内面を自分のものとして表現するためには被爆者に直接会って話を聞き、その人たちに心を開いて受け入れてもらうことがまず必要でした。このようにして描く対象に迫るのは、初期の段階から一貫した上野の方法、姿勢であったと思います。

原子野H(1976)
原子野H(1976)

表現の転換と未完の問い

 この連作では、それまでのリアリズムの手法から脱け出して画面の空間は多次元的に重層し、より造形的な言葉を求めて苦悶するようになります。被爆者の体験や心情をイメージの核としながら、やがてテーマは広がって行き、原爆が現代の人間にもたらすものは何かという問いへぶつかっていったのではないでしょうか。無謀とも思えるこのようなテーマに作者は迫ろうと苦しみ、完結させえぬまま生涯を終えました。

 

上野がこういうテーマに行き着いた根底には、生命あるものの愛、弱者や社会の底辺に生きるものへの共感、そして冷酷に人の生命を消費する戦争とそれを引き起こした者達への憎悪などがあり、それらは若い時代から上野の素質、感性、思想として作品の中に流れ続けてきたものでした。