
上野誠は、敗戦10年後に制作した『ケロイド症者の原水爆防止の訴え』で原爆表現に取り組み始めました。被爆者との衝撃的な出会いを契機に、記録的リアリズムから出発し、『ヒロシマ三部作』や『原子野連作』へと展開。後者では表現を深化させ、原爆が現代人に突きつける問いに迫ろうとしましたが、未完のまま生涯を終えました。その根底には弱者への共感と戦争への強い憎悪がありました。
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上野誠は1961年、原爆被害の原点である長崎を訪れ、被爆者と深く交流しました。この経験について上野は、「単純だった触覚的理解が大きな世界に解放されて」「すべてが動く姿で与えられた」と述べています。そこで最初に生み出されたのが、全58点からなる掌版シリーズです。掌に収まるほどの小品ながら、それらは版画家・上野誠の芸術が最も凝縮された作品群といえます。







上野誠は、初期の《波止場》(1937)から後年の《働く炭焼き》(1970)に至るまで、一貫して働く人を描き続けました。しかしその表現は大きく変化しています。初期は立体感や量感に富むリアリスティックな描写であったのに対し、中期には形態や表情の強調へと移行します。さらに後期の《働く炭焼き》では、カメラのシャッターを切ったような一瞬の形の面白さが際立っています。


上野誠が幼少時から父親に繰り返し聞かされたのは、「先祖は村民の年貢負担を減らすため命をかけた」という話でした。鍼灸師であった父親は、治療費を払えない患者から野菜などを受け取り、診療を続けていたといいます。こうした環境の中で育った上野のまなざしには、社会の中で困難な状況に置かれた人びとへの関心と共感が一貫して見て取れます。上野が人びとにどのように向き合っていたのか、その一端をご覧ください。






上野誠は多くの鳥を描いています。代表的なモチーフである鳩をはじめ、フクロウ、「オットー」と名付けられたチャボなど、さまざまな鳥を版画に表しました。これらの作品からは、上野が鳥に対して並々ならぬ愛情と深い関心を抱いていたことがうかがえます。



